「ゼロから始める魔法の書」が好きだ。

承前で「このラノ」の話題から。堂堂の60位であるところの「ゼロから始める魔法の書」について。

2015年もっとも続きを楽しみしたシリーズだった。大好きだ。ほとんど評価されていないのが不可解極まりない。「このラノ」で読者が求める新作としてファンタジーがその筆頭だというのに、なぜ現行のこれほど良質なファンタジーを読もうとしないのか。ホビット庄がでてこないからか。

たしかに受賞一作目から二作目まで間があいた。おまけに上下巻だった。読むのが億劫になるのは致し方ない。たしかにこの2巻は長いわりにシリーズ上の意味はなかった。1巻で大きく世界が変えられたあとだというのに、平凡な目的通りの旅があるだけだ。世界がひらくような謎解きも、情報も増えはしなかった。敵っぽいのがすこしだけ姿を見せただけで「あー、邪魔だけどゼロの敵じゃねーなー。ザコじゃん」と思わないでもなかった。いや思った。

がしかし、4巻である。

急に物語が始まる。生易しい勇者物語ではない。主人公たちが敵に対して「絶対殺す」と誓うのだ。

このファンタジーはちゃんと人が死ぬ。どうしようもなく、人が死ぬ。弱いものは一山いくらで死んでいく。「魔弾の王」「アルデラミン」でもちゃんと人が死ぬ。そこはファンタジーではない。戦闘と戦いと、それを潜り抜けていく主人公たちの強さが屹立している。ライトノベルでのファンタジー、から安易に想像する、異様なまでの都合のよさはここにはない。「傭兵ピエール」のように簡単に登場人物が死ぬのだ。

最新刊でも「あー、こりゃ死ぬな」と好感しかないキャラクターが登場するとその先にあるうらぎりを知っているためか身構えてしまう。どうしてもおもいきり好きになれない。なぜなら死ぬから。そういうから死んでいくからだ。しかし、だからこそ、ピンチを切り抜けたとき、主人公が助けに来た時に、ご都合主義だなんて思わない。本当によかったといったん安堵できる。しかし、当然だがそれは次の困難、死の恐怖の始まりとなる。

民衆は身を守る。だから平気で人を売る。裏切る。長いものに巻かれる。おもねる。ライトノベルというとそういう闇を否定した、居心地の良い、小学校の道徳の時間のような模範さが通奏低音として存在しているのであるが「ゼロから始める魔法の書」にはそんなものはない。繰り返しになるがここに広がるのは簡単に人が死ぬファンタジー世界だ。

異世界転生がはやって久しい。しかし、どこか都合がいい。ゲーム世界のなかだったりする。ちゃんと人が死ぬシーンを書くのは相当のストレスなのかもしれない。安易に死ぬのも単に「ダークファンタジー」と免罪符が貼られてしまう。「ファンタジー」は求められていても「ダークファンタジー」は求められてないからだ。

この最新刊に至っては、斬首のシーンに挿絵があるのだ。主人公たちの見せ場でもない。戦いの帰結として斬首されるのだけれど、そこに挿絵があるのだ。

この物語にはそこに挿絵が必要なのだ。あまたの凡百のライトノベルから一線を引くために、自分自身を名乗るために、絶対にここに挿絵が必要だったのだ。

4巻、5巻と進むごとに着実にライトノベルの軸から外れていくのだけれど、まだまだライトノベルの範疇にみごとに収まっている。その離れる旅路に呼吸も忘れ、読み終わると緊張から解放され、ほう、と一息つける。この一瞬にこの本の価値があるのだ。

俺TUEEE、最強ヒロイン、かわいい女の子、感情でつっぱしるヒーローとライトノベルのパーツを実装しながらも、その物語舞台はどこかライトノベルらしくない。なにか影がある。世界の息遣いがある。主人公たちの目的も常に繰り返される。「殺す」となんども作中で確認される。どれだけその違和感のある目的を読者が共有できるのか、同意できるのか。それを許す雰囲気を作り出すことに成功している。

そしてなによりこれを許す電撃文庫の幅の広さ。もともと面白ければなんでもありの叢書ではあるが、では面白いとはなんなのか。明確にその答えがここにある。面白いとは先がわからないこと、それでも期待ができること、そして没頭できることだ。

これほど面白いのだからみんな読めよ。